イメージが作る偏見

私のパートナーは黒人だ。

彼との結婚生活の中で、驚くほど頻繁に驚くような質問を受けることがあった。

それらの質問は私を不快にするために発せられた質問ではなく、純粋に質問者が浴びてきた情報によって形作られた無意識のイメージが形になっただけだと私は思う。浴びてきた情報とは、加工され、どちらかの方向に偏重され、情報の作成者の主観を通して多くの人に伝えられた情報である。そこにある一定の悪意が含まれていて仮想の悪を作る意図がある可能性があるのだが、情報の享受者たちはどうしてそれらの疑問が真実からかけ離れていてることを知ることができるだろうか?とりわけ情報が滝のように流れ、批判もせず鵜呑みにすることが当たり前になり、思考さえも放棄した人間にとっては自分の信じている情報が全て真実ではないということなど思いつくことなどできるだろうか。笑えと言われれば笑い、泣けと言われれば泣く、そんな自分の意志や力を放棄した人間にとめどなく浴びせられる”イメージ”を批判的にみることなどできるはずがない。

 

よく聞かれることのある質問を挙げてみる。

あなたの夫は銃を持っている?持っているはずだ。

あなたの夫はドラッグをする?するはずだ。

あなたの夫はギャンブルをする?するはずだ。

あなたの夫はきちんと高校を卒業している?していないはずだ。

あなたの夫はあなたを殴ったりしない?殴るはずだ。

あなたの夫は婚外子がいる?いるはずだ。

あなたの夫はセックスアディクト?アディクトのはずだ。

あなたの夫はHipHopを聞いている?聞くはずだ。

あなたの夫はHipHopのようなファッションをしている?しているはずだ。

あなたの夫は家でゲームばかりしている?しているはずだ。

あなたの夫はあなたをののしったり酷い扱いをしていない?するはずだ。

あなたの夫は頭が悪いのでは?悪いでしょう。

実際に受け付けた代表的な質問を挙げてみたが、いかに質問者の黒人、とりわけ黒人男性のイメージが偏っているかを思い知らされる。

何に基づいて黒人男性に限ってこのような質問が上がるのだろう。白人のパートナーでも同じ質問は浮かぶのだろうか。(浮かぶはずがない!)

テレビを見れば黒人男性がパトカーの前で後ろ手に締め上げられている映像、ミュージックビデオを見れば銃・ドラッグ・ギャングと黒人男性のセットを目にする。それは日常茶飯事だ。そういったイメージがとめどなく流れることで無知な人々はそれが真実であるかのように刷り込まれる。

確かに、実際に質問事項にあてはまる黒人も存在することは認めるし、数にすれば当てはまらない黒人の数を上回るかもしれない。

しかし私が問題だとおもうのは人々は無意識に黒人に刷り込まれたイメージに基づくも行動を期待し、それに当てはまらないと満足しない点である。それは好奇の関心によると人の不幸は蜜の味といった気持ちが根底に流れていて、どうにかこうにか黒人のパートナーを持つ人間を不幸な人間に仕立てあげようという意図さえくみ取れる。それは質問者本人すら気づいていないが、マイノリティと呼ばれるグループの視点を通して物事を見ること質問者の根底にある憎しみや無知、他人をあざ笑うような浅はかな気持ちはありありと透けて見える。

パートナーについて言えばこの質問事項のどれにも当てはまらない、それが事実である。しかし人々はどうにかこうにか自分の持つ黒人像に当てはまるイメージを彼にも当てはめようとしてくる。それは彼らのイメージが偏重していることにも起因するかもしれないが、黒人と結婚する女など不幸に違いないという思いが無意識に根底に流れているのではと思わされる。またニュース等で見る黒人像はこれらのどれかに当てはまることが多く、本人が気づけるよりももっと奥底にそういったイメージが焼き付いているのだろう。

また黒人は元奴隷なのだから野蛮で粗暴であるはずだ、そして彼らが私たちよりも優れているはずがないという考えがあることも一つの側面を形づくっていると思う。そしていまだに彼らは奴隷であると信じる人すら驚くほどたくさんいるのが事実だ。

ある日本人面接官は「うちの会社には優秀なXXがいるんだ。まあ黒人なんだけどね。」といった。黒人で優秀であることはなにか問題があるのだろうか?

また私のパートナーは非常に頭が良い。そのことをある日本人は「XXさんの旦那さん、黒人にしては頭がいいね」と言った。黒人にしてはって黒人は頭が悪いことが期待されているんですか?と聞いてみるとどもっていたが、多くの人にとって黒人に期待される行動規範は無知で愚かであることが読み取れるし、差別意識が露呈することがよくある。

私が彼がこのどの質問に当てはまらず、最高の夫で最高の親友で最高に信用できる、人間として世界で一番尊敬できる人であることを伝えると、質問者は困惑した表情をするのだ。口先では「そうよね、幸せでよかったわ」と笑顔を見せているものの、それ以上何を聞けばよいのか困惑している様子が見てとれる。また驚かされるのが、この質問をするのが非黒人(白人、日本人含むアジア人、ヒスパニック等)だけでなく、黒人からもこのような質問がされるのだ。黒人ですらも自分たちをこの中のどれかに当てはまることを無意識に当然としているのではと思わされずにはいない。

私は口には出さないが、あなたの質問したことにばっちり当てはまる白人や日本人含むアジア人だってどれだけ多いかご存知ですか?と心の中で聞いてみる。そして「あなたのパートナーはどうですか?」と聞いてみる。あなたは黒人を心の奥底で嘲笑しているかもしれないけれど、あなたの配偶者はあなたを心から愛し尊厳をもって接してくれますか?もしあなたの配偶者が非黒人であなたを家政婦のように扱い、暴力と暴言によってあなたの精神的・身体的自由を抑え込もうとしたり、尊厳を感じられる扱いをしてくれないのであれば、奴隷という概念は人種という枠組みだけに当てはまるものではなく、関係性に起因するものではないでしょうか?と心のなかで問うてみる。あなたが黒人でないからといって、あなたは奴隷でないとは限らない。奴隷という言葉が黒人を連想されるから、他人事のようにおもえるかもしれないが、奴隷という立場は思っているよりも誰の身にもものすごく身近なものだと思う。

 

実際パートナーは修士卒の専門職に就いている。周囲からの信頼も厚く、プロフェッショナルとしての知識・経験そしてリーダーシップを持っている。私たちの家に銃はない。自己防衛と言えども生き物を殺傷することを良しとしていないからだ。ドラッグもしないし、お酒も飲まない。自分に既に思考力や創造性が神から与えられているのでドラッグやお酒によってそれらを冒涜するようなことをしたくないためだ。定期的なエクササイズによって体をメンテナンスし、心身のコンディションをベストに保つことをモットーにしている。長期的視点に立って経済的な安定と精神的な安定を目指し、それらが物理的な幸福に影響を与えることを知っている。エクササイズの時を除いて彼はHipHopを聞かない。オーケストラやジャズを好む。彼はラッパーのような服装もゴールドのチェーンもしない。シンプルなセーターにジーンズ、レザーのシューズ、それらはHugo BossかTheoryで購入されたものだ。子供を無計画に作ることに反対で、婚外子はいない。

私は一度も殴られたこともののしられたこともない。話し合うべきことがあるときは、かならず冷静に言葉を選び、お互いの納得する合意点を探り出そうとファシリテートする。彼はお皿洗いは嫌いだが掃除・洗濯・料理を率先して行う。グローセリーショッピングも自分でもちろん行く。家政婦のように扱われたことはない。家の修理、たとえばキッチンやバスルームのアップグレード、床の張替えも自分で行う。病気の時は看病もしてくれる。私を尊敬をもって扱い、愛情を注ぎ、一人の人間としての自由を与えてくれる。

質問者をどう満足させようと試みても、彼はどの質問にも当てはまらない。彼は彼なのだ。彼は黒人や男やそういった枠組み以前に彼は彼自身なのだ。どのイメージに当てはまる必要もないし、当てはまるようにも生きていない。

私がここで言いたいのは、上記のような質問をすることは私は無知で偏見に満ちている人間であるということを宣伝しているようなものだとということを知るべきであるということである。数としてこれらのどれかに当てはまる黒人が多いからといってそれが全ての人に当てはまるとは限らない。人種主義者とは自分は無関係だとかんがえるかもしれないが、こういった無意識のバイアスがかかった視点を露呈することは人種主義者とみられても良いということである。

黒人に限らず、上にあげたような質問を他人種に対して頭の中に持っているひとに問いたい。

それらの質問は本当にあなたの頭の中から出てきたのか?本当にあなたの頭がひねり出して出てきたのか?テレビ・本・ネット等で刷り込まれてきた思考を鵜呑みにしているだけではないのか? 全身を使い、本当を知るする努力をせずに借りてきた考えを自分のものとして勘違いしてはいないか?この視点と自省がないと、あなたは無意識に、間接的に人種差別に加担することになる可能性を秘めているのだ。社会が変わっていく中で、多くの人種とかかわることが増えていく。簡単に外国人も友達などと上っ面だけなぞった国際交流は卒業し、自分の中にある他者を嘲笑したり見下したりする醜い部分をしっかりと目を背けずに認識していくことが大切なのではないかと思う。