アウトドアと人種

自然は素晴らしい。いうまでもないが、大自然の中にいるとまずは自然、ひいては地球が存在し、その大地があって初めて人間が存在するのだと気づかされる。

人間ドラマの多い日常生活を送っていると、無知な人間は、人間こそがこの地球を導いている重要な存在であるかのように思い違いをしてしまいそうになるが、自然は私たち人間がいなくたって十分すぎるくらいにその生命を享受する。むしろ人間などいないほうが自然は彼らの命の可能性を最大限に活かすことができる。なのに自然は私たち人間を批判することも拒否することもなくただそこにいることを許してくれている。なんの取引や損得勘定もなく、すべてを無条件に許してくれている。

 

アウトドアに片足を突っ込んでしばらくたつが、どこの国立公園や州立公園に行っても気づくことがある。それは、有色人種のハイカーが非常に少ないということだ。確かに中国系、インド系の有色人種はどこの観光地でも同じように散見される。この有色人種というのは黒人、アフリカンアメリカンのハイカーのことを指す。見渡せば東洋系かインド系、それ以外はブリーチしたかのように白人のハイカーしかいないといっても過言ではない。

私とパートナーはハイキングやスキーに行く。山の中でアジア系と黒人の組み合わせはほとんど唯一の組み合わせといってもよいくらい珍しい。ハイカーの中には私たちを場違いな場所に迷い込んだ二人組であるかのように無遠慮に見てくる人たちもいる。あたかもそこは白人の支配地、所有地であると言わんばかりに。

(ネイティブンアメリカンの土地であったことを私たちは忘れてはいけない!)

私たちは恐れという感覚が欠落しているため、どんな場所にでも行きたければ行くのだが、南部に住んでいたころ、一度黒人の友人をハイキングに誘ったが、断られた。「怖いから行きたくない」と。無知だった私は彼女はきっと熊などの野生動物が怖いのだろうと思っていた。それは人種に関わらず怖いことであって、彼女が黒人であるという視点は考えてもみなかったが、彼ら特有の歴史背景からくる恐れなのではないかと今になって思う。

南部では(南部だけでなく全米で)いまだに黒人へのリンチや殺害事件が後を絶たない。黒人が人気のない山の中を歩いているということは死の危険と直結する。黒人を娯楽のように殺害しても平気な人々がいて、そんな人たちがいるところへ無防備に行くということは自らリンチやレイプを望んでいるようなものなのである。そんな状況では自然を楽しむという感覚が育まれるのは歴史的に難しかったのだろう。ハイキングやトレイルに黒人が少ないのにはこういった理由も大きく寄与していると思う。

また、ある黒人男性の友人はどれだけの数の黒人男性が山の中に入って行って帰って来なかったか知っているか?という。かえって来ないというのは決して彼らが道に迷って帰ってこられないという意味ではない。黒人を見ると暴力や憎しみが条件反射的に湧き上がる人たちがいてそういう人が実際に山の中にいた黒人に手をかけてきたということである。

国立公園や州立公園は人里離れた所にあることが多く、そこは多くの場合白人を中心とする閉鎖的なコミュニティがあることが多い。そこは銃を販売する店と、Confederate Flag(南部連合国旗)、そして”Make America Great Again”というスローガンを力いっぱいプリントした横断幕が垂れさがっている。これがどういう意味か日本にいるとよくわからないかもしれないが、アメリカではこの3セットは人種主義と排外主義のシンボルである。

そんな環境に自ら喜んで無防備に足を踏み入れる黒人が少なかったことは容易に想像がつく。黒人が奴隷制を引きずって逆差別しているととらえる人もいるかもしれないが、彼らは彼らの目撃した歴史から学び、それを子や孫に受け継いできた。学んだことを忘れるほうが愚かである。かれらは命を守るためにどう行動すべきかを学び、その結果の一つがトレイルなどの自然に無防備に入りこまないということであったのであろう。

制度上は奴隷制は廃止されているが、いまだに黒人がリンチされる事件や無実の罪で警官に殺害される事件は後を絶たない。黒人が黒人であるというだけの理由で命を奪われる可能性がある環境では今まで本来人間が自分の本来の姿に戻れるはずの場所である自然を純粋に楽しむことはできなかったのだろう。

こういったネガティブな歴史があっても、数年前と比べてトレイルで出会う黒人の数は増えてきている。近年アメリカではEquity in outdoor、Diversity in outdoorという動きが活発である。これはもっとアフリカンアメリカンにハイキングやトレイルへ出かける機会を増やし、自然に親しむ機会を作る重要性をInfluencerやブロガーが集まって働きかけているムーブメントである。

自然はどの人種を歓迎し、どの人種を拒否するなどという愚かしい考えをもたない。自然は命あるものすべてを無条件に包み込んでくれる尊く崇高な存在である。自然と切り離されてきた黒人がこのポジティブな流れに乗って本来彼らの生活の大切な一部であった自然をもっと身近に感じ、身の危険を感じることなく楽しめることが当たり前の社会になる日がくることを祈っているし、そう私も行動していきたいと思う。自然が与えてくれる力は図り知れない。どんな苦しみも呪いも溶かしてくれる。このような自然の偉大さを人種や所得に関係なくすべての人が享受できる日が来ることはそう遠くはないはずだ。

イメージが作る偏見

私のパートナーは黒人だ。

彼との結婚生活の中で、驚くほど頻繁に驚くような質問を受けることがあった。

それらの質問は私を不快にするために発せられた質問ではなく、純粋に質問者が浴びてきた情報によって形作られた無意識のイメージが形になっただけだと私は思う。浴びてきた情報とは、加工され、どちらかの方向に偏重され、情報の作成者の主観を通して多くの人に伝えられた情報である。そこにある一定の悪意が含まれていて仮想の悪を作る意図がある可能性があるのだが、情報の享受者たちはどうしてそれらの疑問が真実からかけ離れていてることを知ることができるだろうか?とりわけ情報が滝のように流れ、批判もせず鵜呑みにすることが当たり前になり、思考さえも放棄した人間にとっては自分の信じている情報が全て真実ではないということなど思いつくことなどできるだろうか。笑えと言われれば笑い、泣けと言われれば泣く、そんな自分の意志や力を放棄した人間にとめどなく浴びせられる”イメージ”を批判的にみることなどできるはずがない。

 

よく聞かれることのある質問を挙げてみる。

あなたの夫は銃を持っている?持っているはずだ。

あなたの夫はドラッグをする?するはずだ。

あなたの夫はギャンブルをする?するはずだ。

あなたの夫はきちんと高校を卒業している?していないはずだ。

あなたの夫はあなたを殴ったりしない?殴るはずだ。

あなたの夫は婚外子がいる?いるはずだ。

あなたの夫はセックスアディクト?アディクトのはずだ。

あなたの夫はHipHopを聞いている?聞くはずだ。

あなたの夫はHipHopのようなファッションをしている?しているはずだ。

あなたの夫は家でゲームばかりしている?しているはずだ。

あなたの夫はあなたをののしったり酷い扱いをしていない?するはずだ。

あなたの夫は頭が悪いのでは?悪いでしょう。

実際に受け付けた代表的な質問を挙げてみたが、いかに質問者の黒人、とりわけ黒人男性のイメージが偏っているかを思い知らされる。

何に基づいて黒人男性に限ってこのような質問が上がるのだろう。白人のパートナーでも同じ質問は浮かぶのだろうか。(浮かぶはずがない!)

テレビを見れば黒人男性がパトカーの前で後ろ手に締め上げられている映像、ミュージックビデオを見れば銃・ドラッグ・ギャングと黒人男性のセットを目にする。それは日常茶飯事だ。そういったイメージがとめどなく流れることで無知な人々はそれが真実であるかのように刷り込まれる。

確かに、実際に質問事項にあてはまる黒人も存在することは認めるし、数にすれば当てはまらない黒人の数を上回るかもしれない。

しかし私が問題だとおもうのは人々は無意識に黒人に刷り込まれたイメージに基づくも行動を期待し、それに当てはまらないと満足しない点である。それは好奇の関心によると人の不幸は蜜の味といった気持ちが根底に流れていて、どうにかこうにか黒人のパートナーを持つ人間を不幸な人間に仕立てあげようという意図さえくみ取れる。それは質問者本人すら気づいていないが、マイノリティと呼ばれるグループの視点を通して物事を見ること質問者の根底にある憎しみや無知、他人をあざ笑うような浅はかな気持ちはありありと透けて見える。

パートナーについて言えばこの質問事項のどれにも当てはまらない、それが事実である。しかし人々はどうにかこうにか自分の持つ黒人像に当てはまるイメージを彼にも当てはめようとしてくる。それは彼らのイメージが偏重していることにも起因するかもしれないが、黒人と結婚する女など不幸に違いないという思いが無意識に根底に流れているのではと思わされる。またニュース等で見る黒人像はこれらのどれかに当てはまることが多く、本人が気づけるよりももっと奥底にそういったイメージが焼き付いているのだろう。

また黒人は元奴隷なのだから野蛮で粗暴であるはずだ、そして彼らが私たちよりも優れているはずがないという考えがあることも一つの側面を形づくっていると思う。そしていまだに彼らは奴隷であると信じる人すら驚くほどたくさんいるのが事実だ。

ある日本人面接官は「うちの会社には優秀なXXがいるんだ。まあ黒人なんだけどね。」といった。黒人で優秀であることはなにか問題があるのだろうか?

また私のパートナーは非常に頭が良い。そのことをある日本人は「XXさんの旦那さん、黒人にしては頭がいいね」と言った。黒人にしてはって黒人は頭が悪いことが期待されているんですか?と聞いてみるとどもっていたが、多くの人にとって黒人に期待される行動規範は無知で愚かであることが読み取れるし、差別意識が露呈することがよくある。

私が彼がこのどの質問に当てはまらず、最高の夫で最高の親友で最高に信用できる、人間として世界で一番尊敬できる人であることを伝えると、質問者は困惑した表情をするのだ。口先では「そうよね、幸せでよかったわ」と笑顔を見せているものの、それ以上何を聞けばよいのか困惑している様子が見てとれる。また驚かされるのが、この質問をするのが非黒人(白人、日本人含むアジア人、ヒスパニック等)だけでなく、黒人からもこのような質問がされるのだ。黒人ですらも自分たちをこの中のどれかに当てはまることを無意識に当然としているのではと思わされずにはいない。

私は口には出さないが、あなたの質問したことにばっちり当てはまる白人や日本人含むアジア人だってどれだけ多いかご存知ですか?と心の中で聞いてみる。そして「あなたのパートナーはどうですか?」と聞いてみる。あなたは黒人を心の奥底で嘲笑しているかもしれないけれど、あなたの配偶者はあなたを心から愛し尊厳をもって接してくれますか?もしあなたの配偶者が非黒人であなたを家政婦のように扱い、暴力と暴言によってあなたの精神的・身体的自由を抑え込もうとしたり、尊厳を感じられる扱いをしてくれないのであれば、奴隷という概念は人種という枠組みだけに当てはまるものではなく、関係性に起因するものではないでしょうか?と心のなかで問うてみる。あなたが黒人でないからといって、あなたは奴隷でないとは限らない。奴隷という言葉が黒人を連想されるから、他人事のようにおもえるかもしれないが、奴隷という立場は思っているよりも誰の身にもものすごく身近なものだと思う。

 

実際パートナーは修士卒の専門職に就いている。周囲からの信頼も厚く、プロフェッショナルとしての知識・経験そしてリーダーシップを持っている。私たちの家に銃はない。自己防衛と言えども生き物を殺傷することを良しとしていないからだ。ドラッグもしないし、お酒も飲まない。自分に既に思考力や創造性が神から与えられているのでドラッグやお酒によってそれらを冒涜するようなことをしたくないためだ。定期的なエクササイズによって体をメンテナンスし、心身のコンディションをベストに保つことをモットーにしている。長期的視点に立って経済的な安定と精神的な安定を目指し、それらが物理的な幸福に影響を与えることを知っている。エクササイズの時を除いて彼はHipHopを聞かない。オーケストラやジャズを好む。彼はラッパーのような服装もゴールドのチェーンもしない。シンプルなセーターにジーンズ、レザーのシューズ、それらはHugo BossかTheoryで購入されたものだ。子供を無計画に作ることに反対で、婚外子はいない。

私は一度も殴られたこともののしられたこともない。話し合うべきことがあるときは、かならず冷静に言葉を選び、お互いの納得する合意点を探り出そうとファシリテートする。彼はお皿洗いは嫌いだが掃除・洗濯・料理を率先して行う。グローセリーショッピングも自分でもちろん行く。家政婦のように扱われたことはない。家の修理、たとえばキッチンやバスルームのアップグレード、床の張替えも自分で行う。病気の時は看病もしてくれる。私を尊敬をもって扱い、愛情を注ぎ、一人の人間としての自由を与えてくれる。

質問者をどう満足させようと試みても、彼はどの質問にも当てはまらない。彼は彼なのだ。彼は黒人や男やそういった枠組み以前に彼は彼自身なのだ。どのイメージに当てはまる必要もないし、当てはまるようにも生きていない。

私がここで言いたいのは、上記のような質問をすることは私は無知で偏見に満ちている人間であるということを宣伝しているようなものだとということを知るべきであるということである。数としてこれらのどれかに当てはまる黒人が多いからといってそれが全ての人に当てはまるとは限らない。人種主義者とは自分は無関係だとかんがえるかもしれないが、こういった無意識のバイアスがかかった視点を露呈することは人種主義者とみられても良いということである。

黒人に限らず、上にあげたような質問を他人種に対して頭の中に持っているひとに問いたい。

それらの質問は本当にあなたの頭の中から出てきたのか?本当にあなたの頭がひねり出して出てきたのか?テレビ・本・ネット等で刷り込まれてきた思考を鵜呑みにしているだけではないのか? 全身を使い、本当を知るする努力をせずに借りてきた考えを自分のものとして勘違いしてはいないか?この視点と自省がないと、あなたは無意識に、間接的に人種差別に加担することになる可能性を秘めているのだ。社会が変わっていく中で、多くの人種とかかわることが増えていく。簡単に外国人も友達などと上っ面だけなぞった国際交流は卒業し、自分の中にある他者を嘲笑したり見下したりする醜い部分をしっかりと目を背けずに認識していくことが大切なのではないかと思う。

 

Keep it real 本質的な意味

黒人の優れている部分というと一般的にリズム感がよい、ダンスがうまい、歌がうまい、運動神経がよい、などが挙げられる。確かにTVや映画のエンターテイメントの中で圧倒的な表現力を持つ黒人は誰もが見たことがあるだろう。メディアを通さずとも確かに一般人レベルでも歌やダンスのとてもうまい人は多い傾向にある。また運動神経に関しては、さまざまなスポーツで黒人選手の活躍むしろ独壇場になっているほど素晴らしいプレーを見せてくれる。

このような一般的に優れているという点に関して全くの異論はない。それよりも私は体験から通じて恐ろしいほどに優れているという点が彼らにはあると思う。それは、人の心を見通す力である。うわべだけの言葉はすぐに見透かされることはもちろん、自分でも本心であると思って発言したことでも、その深い深い根底にある、取り繕ったもの、エゴ、偽善的な心、そういったものを直感でかぎ分ける能力が非常に高いと思う。

そういった隠された心は自分でも気づいていなくて、自分の言葉が真実であると思って発言しているのだが、彼らは瞬時にその根底に何が流れているのかを見分け、信用に値する人間かどうかを判断する。だから、何度も何度も自分の意見に挑戦させられる。それは自分の心の確信から出た言葉か?それとも上っ面をなぞった言葉なのか?誰かの言葉を自分の気持ちであるかのように信じて発言しているのか?

それを試される。自分の発した言葉をなぞり直し、その根幹へと逆行する。

彼らの前では嘘がつけない。自分の核心を試される。自分でさえも気づかなかった心にふたをしている部分を彼らは開けてみろと試してくる。決してこじ開けはしない。自分の力で開けるまで挑戦してくるのだ。

このような能力はどのようにして培われるのだろうかと考えてみる。それは彼らの育った生活環境にやはり起因するのではないかと思う。複雑な家庭環境や安全とは言えないコミュニティの中では一つの判断の誤りが決定的な致命傷になることがある。ひとつの問題に足を踏み入れ、それなりに問題解決に挑む。表面的に問題は解決したかのように見えるが、実はそれはもっと大きな問題につながっていたとか。やさしさや善人の仮面をかぶった人間が突如銃を突き付けて金銭を、命を、家族を奪うという危険性もある。Sleeping is the causin of deathとNasの詩の中にもあるが、常に自分の周りで何が起きているのか、自分が対峙している人間が何者なのか、自分が何に巻き込まれているのか、ぼーっとしていると(Sleep)知らず知らずのうちに危険な罠に入ってしまい、死と隣合わせの状況がすぐ隣にやってきているということがある(Cousin of death)。

人との関わり自体がのらりくらりとしたものではなく、すべてが選択の連続のような感覚。一瞬一瞬で最適な選択をしていかなければ毒蜘蛛の巣に絡めとられるように自分の安全が侵される中でこういった人の核心を見抜く術が磨かれていったのではないかと思う。

”Keep it real”という言葉を彼らは使う。その本質を知らなかったときはHipHopな人間が恰好つけて言う言葉かと思っていた。意味としてはマジでとか、本気で、とか猫かぶるな、とかそういったざっくりとした解釈だった。

しかし、黒人との生活を通じて、そして自分の中の偽善・傲慢・憎しみ・妬み・後悔など複雑にからまりすぎてみたくもないものを見たくもないのに真正面から見つめた結果、Keep it realの深い根本的な意味は、自分の心・行動・魂・言葉・思いが全て一致しているか、矛盾していないか、たぶんそういった有様、生き様を表す言葉なのではないかと思う。日本語でその概念に合致する言葉がないのかもしれないが、体感から自分自身と一致するという意味ではないかと思う。

黒人と深く深くかかわる中で、自分の深いところにある自分でも気づかない心にふたをした部分を開けざるを得ない経験をした。それは決して美しく楽なことばかりではなく、自分の中に潜む醜い魔物と対峙するような感覚だ。その魔物から目をそらさずに向き合う。そして魔物を倒すのではなく、その魔物をも含む人間が自分なのであると降伏し、認める。魔物に向き合うのは苦しい経験だ。苦しさ故に目をそらし、自分の善と認めている部分だけを自分であると認めることのほうがずっとお気楽だろう。しかしその魔物に向き合わなければ本当の自分という人間を形成しているのがどんな経験、どんな感情かを真に理解することは難しいと思う。不思議なことにその魔物にふたをしていたときよりも、真剣に向き合った後のほうが自分が自分を信じることができるようになった、そして彼らから、彼らだけでなくより多くの人から結果として信頼されるようになった。

自分の中でなぜそう思うのか、なぜこう発言するのか、なぜ私はこういう行動をするのか、それを深く考えさせられた。結果、自分の核心にたどりつくことができた。そして自分の心、発言、行動に矛盾がないとはどういう状態かを知ることとなった。その状態になって、初めてKeep It Realの本質的な意味が分かった気がした。

 

黒人差別が残したもの 経済格差など序の口

アメリカで暮らして黒人のパートナーとして暮らすと全く違うアメリカが見えてくる。そして差別はあると断言する。自分のパートナーの体を肌の色を理由に破壊してもよいと考える人間がいて、そしてそういう人間が実際に危害を加えても国家や法は危害を加えた人間を擁護し、黒人の生命を見捨て、軽んじてもよいというようなことがまかり通ることは今日に始まったことではない。

黒人であるというだけで警察に呼び止められ、理由なく身体を調査されることだってある。黒人であるというだけで警察を呼ばれることもある。その黒人がどれだけ品行方正で、高い教育を受け、人格者であっても無関係に。白人が犯した軽犯罪は見過ごされるのに黒人が同じことをした場合刑務所にぶちこまれる。これは大げさや過剰反応ではなく、純粋な事実だ。

私が驚くのはあまりにもこの事実が理解されないということだ。普段黒人とかかわりの少ない人たちにこの話をすると、

ここは南部じゃないんだよ? 21世紀にもなって差別なんてないよ?黒人が意識しすぎだよ。逆差別だよ。過激な発想だよ。

これが大抵の人の反応だ。一切の平等なんてないんだから黒人は黙って諦めろという人もいる。人間としての公平な扱いを求める黒人に対して、トラブルメーカーでうるさい存在だと考えるひとたちもいる。でも一方的に経済的・身体的・社会的にもうなにをしても立ち向かえないほどにボロボロにされていて、それでも叩きのめされ続ける人種のグループが声を上げることはうるさい人たちとレッテルを貼られるべきことなのだろうか? この世は不平等でみんな何かしら我慢しているのだから黒人も黙って我慢しろ、と言えるのだろうか? 

 

それもある程度は仕方ないのかもしれない。異人種の交流がなければ、実際に起きていることを知るのは難しい。隣の家のいつも明るく素敵な妻ががひとたび家の中に入れば夫の暴力に虐げられているのを知らないように、隣人を隔てる壁がある限りその中にいる人に起きていることを知りえないのと同じように、よほど興味がなければ、よほど首をつっこまなければ実体験として見えてくる真実を知ることは難しい。しかし、知らないからといって、当事者でない人間、本当に彼らの痛みを知る努力をしていない人間が差別などないと結論着けるのは短絡的ではないだろうか。借りてきた人種差別の考えを使って私は差別などしないというのは本心なのか?それとも本心に見せた借り物の言葉による自分は善人であると見せかける自己防衛なのか? 

何年もかけて黒人と生活してみれば、簡単に自分に差別意識がないなどと言い切ることは難しいことがわかる。黒人のパートナーになっても尚自分の中の差別意識により一層気づかされる。無知であることと、実際に差別意識がないのとは全く別物である。もし黒人のパートナーで一切自分の心の中にこのような人を裁き、差別するような醜い感情が全くない、なかったと言い切れる人がいたとしたらそれはきっとよほど頭がおめでたいのだと思う。

 

アメリカに住む多くのアフリカンアメリカンは奴隷として劣悪な環境の中アメリカ大陸に連行され、重労働に従事させられ、その扱いは残酷であった。白人のマスターに鞭で打たれ、炎天下の中綿花畑で働かされ、レイプされ、白人のエンターテイメントのために踊り、歌い、戦わされ、子供を略奪され、言語・信仰・文化を奪われ、家族は引き離された。家畜のように火で熱した鉄を肌に焼き付けられ、奴隷としての刻印を地獄の火であぶられるような痛みに苦しみ叫びながら押された。

この奴隷制という暴力から派生した恐怖は差別を生み出しただけでなく、世代間に渡る他人種と比較して経済的不利益や社会格差を生み出した。物理的な面で不平等を固定させただけでなく、何より罪深いのは、人間の純粋な欲望、良く生き、幸せを求める、という人間が作られた理由であるともいえるほどの基本的な思いを遂げられずに奪われていった命が昇華されずにこの世にまた戻ってくることである。人間の使命はこの世を少しでも良くすることである。それは他者を排除することではなく、調和に基づき、他者を理解・尊重して、命を大切にすることである。その点で奴隷制がこの地球にもたらした罪は私たちの目に見えない重く苦しいものとして残っている。

奴隷制が生んだ恐怖と抑圧は奴隷解放後も黒人社会、アメリカ社会の根底に流れており、その恐怖と抑圧は本来の魂から望んでいる姿からの乖離を生み出し、彼らを逃避的な行動へ向かわせている一因となっている。

それは黒人の問題であって、他人種の問題ではない、とあなたは言うかもしれない。しかし、分断の時代は終わったのだ。もう無知ではいられないのだ。人間の意識はお互いにイルカがコミュニケーションをとるように言葉を介さなくても伝わっていく。一人が私は関係ないと差別を許容することはそのほかの多くの人に伝播し、差別を許容する意識が広がっていく。自分に関係ないなら別にそれでよいではないか、とあなたは言うかもしれない。良くないのだ。人間が生まれてきた目的はなにか。金を稼ぎ結婚し、子供を産み、年金をもらい、立派な葬式をしてもらうために生まれてきたのか。

人間は幸福を追求し、自分と他者とが調和・統合する努力をするために生まれてきたのだ。それがこの世に生を受けた理由であり、これこそが各々が持ち越してきた問題解消へとつながる。だからこそ、他者の痛みを分かちあい、幸せを共有する意識をもつことが大切なのである。神の前で、すべての人間の魂は平等であり、それが実現するように努めることが人間の使命なのである。金の前では不平等だが、神の愛は人種・性別すべてを超越している。だからこそ、差別の意識を持つことも、無関心でいることも許されないのである。その態度はまた新たな苦しみをこの世に残していくことになる。今、無関心でいるあなたも、輪廻転生の中で解消できないカルマとしてまたその苦しみを経験する可能性があるのだ。だからこそ、自分の世界だけに留まらず、他者を受容し、バランスのとれた世界への実現へと私たちの意識を向かわせなければいけない。

 

自己責任?トラウマと逃避:Women Telling Our Stories on Purpose ①

Chapter 1というアフリカンアメリカンの女性をターゲットにしたイベントに参加した。
なぜ行ったかの理由の正当性を述べる必要はないが、あえて言うならば、私の人間としての根幹に純粋に、アフリカンアメリカンの生きる世界に「本当に」何が起きているのかを知りたいという知的好奇心があり、
アフリカンアメリカンの女性が経験する黒人としての抑圧と女性としての抑圧がもたらす社会的・心理的なインパクトをこの目とこの耳と心を通してで知る必要があるという衝動的な思いが消えないからだ。
人為的に作られた奴隷制という抑圧のシステムとそれがもたらした結果は、人種に関わらずこの世界で生き、幸福を追求する私たちに多大なる学びをもたらしてくれると信じる。
 

このイベントはDr. Raedell Cannieを中心に他5名の黒人女性とのパネルディスカッション形式で進められた。様々なバックグラウンドを持つ女性たちがゲストスピーカーとして招かれたが、どの女性も強く、聡明だった。
しかし強く、聡明な女性になるために潜り抜けてきた道は険しいと言わざるを得ない。
今回はその中の一人について述べる。
 

ゲストスピーカーA:


シアトルで生まれ育ち、8人の兄弟の家族。
アフリカンアメリカンへの理由のない暴力を幼い頃から目撃している。
実際彼女の兄弟3名は白人警官・アジア系警官によりいわれのない罪で射殺されている。
彼女の父親や兄弟はただ道を歩いていただけでリンチを受けて帰ってくることが頻繁にあった。
繰り返される愛する家族の喪失の悲痛な悲しみは彼女の健全な精神を破壊した。
あまりの苦しさに、少しでも楽になりたいと彼女自身もアルコールと薬物に依存するようになった。
繰り返される愛する人たちへの残酷な暴力に、人を信じ、親切にし、愛したいという彼女の純粋な思いに反して、一切差別と恐怖と暴力をもたらす特定の民族背景を持つグループとの関わりを絶つこと、
そして誰も愛さないことを誓った。


アフリカンアメリカンのドラッグやアルコールの問題に出会ったとき、それは彼らの逃げと愚かさによるものだと言う人に結構な頻度で出会う。
そして成功できないのは彼らの努力不足と弱さによるものだと批判する。
しかし、愛する家族を暴力的に失ったら、あなたはまともな精神を保てるだろうか?
あなたは喪失の絶望感を本当に経験したことはあるだろうか?
あなたは暴力の恐怖を本当に経験したことはあるだろうか?
絶望感を経験し、さあ前を向いて生きていこうじゃないか、過ぎ去ったことなのだから、とあっさり言い切れるだろうか?


想像してみてほしい。
あなたとあなたの大切な家族が天気がいいなあときれいな空を見ながら毎日歩く道をいつも通り歩いている。
そこに自分の肌とは異なる肌の色をした警官が立っている。
警官はあなたの家族を怪しんでいるようだ。
警官が近づき、あなたの家族に職務質問をする。
あなたの家族は何も隠すこともなく、正直に質問に答える。
しかし警官は執拗にあなたの家族の体中をまさぐり、警官の怪しさを証明する何かが出てこないかとあなたの家族を尋問する。言葉で挑発する。
あなたの家族は抵抗した。
何も隠していない、他人に無遠慮に身体を拘束されたり執拗に触られる理由はない、そして他人に侮辱的な言葉を浴びせられる理由はないという純粋な人としての素直な反応に基づいて。
すると警官は拳銃を引き抜き、あなたの大切な家族を銃殺した。
そしてあなたはそこに立っていた。

 

この場面をたった一度経験するだけでも心が破壊されるような苦しみではないだろうか?
この場面を何度も経験したら?
銃殺されなくとも、何度もそれに近い状況になるところを目撃したら?


トラウマ経験は簡単に消えない。程度の差はあれ、心から消えないしこりのような固い暗い塊が消えないという感覚がある人は多いのではないだろうか。
心理学上トラウマは人間を不安や恐怖で支配するきっかけになる。
またトラウマの解消には深い愛に基づいた成功や肯定的な経験が必要である。
このようなトラウマの性質を考えると、社会的に繰り返し行われる暴力により、世代を渡ってアフリカンアメリカンの中でトラウマの解消ができていないのではと私は思える。


個人レベルのトラウマに加え、集団レベルでのトラウマが加わっている。

人はアルコールや薬物への依存はその本人の心の弱さであり、逃避的行動であると批判する。
しかし、あなたは彼女が受けた悲しみと喪失感を本当に彼女の立場になって想像しているだろうか?
家族が殺されているのだ。家族が失われているのだ。あなたの家族に置き換えて考えてほしい。

黒人は歴史的に何度も何世代にも渡って家族の中にこの暴力と喪失の悲しみを経験しているのだ。
彼女のように家族の中だけでこれだけの数の人が差別による暴行を受け、実際に殺されているということは、
対象を拡大すればかなりの数のアフリカンアメリカンが罪なき罪で身体を貶められ、破壊されてきたということである。
それはすなわちこの絶望的な経験をした人が多く、その苦しみの結果ドラッグやアルコールへ逃避しようとする人が増えるということである。
逃避行動を肯定しているのではないが、その必要があった人の数は暴力の数だけ増えるといってもよいと思う。
だから暴力はすぐにでも止められなければいけないのだ。
 

一方的に不平等な扱いを強いる民族グループを憎む黒人を批判する人もいる。
奴隷制など過去のことだ。忘れて前に進めという。
黒人は過去にとらわれて進化しないという。
制度上の奴隷制は廃止されたが、黒人であるというだけで肉体を破壊される事件は現在進行形で発生している。
あなたの家族が特定の人種に繰り返し暴力を振るわれ、あなたの家族が特定の人種に繰り返し命を奪われ、それでもあなたはしょうがない、あきらめて許そう、と簡単に言えるだろうか?
何度も言う。一度ではないのだ。一度でも起きてはならないことが何度も家族に起きるのだ。

それでもあなたは黒人が暴力をふるう者に抵抗することを黒人の愚かさであるといえるだろうか?
暴力をふるう人間の肌の色が何色であれ、暴力をふるう人に抵抗するのは人間の自然な本能ではないだろうか。


今私が言いたいことは、アフリカンアメリカンのドラッグやアルコールへの依存や現実逃避は当然のものだ、こんな歴史背景があるから仕方ないのだ、ということではないし、
暴力をふるう人種グループを憎むことが正当な反応だと言いたいのではない。
最も言いたいことは、表層に現れてきた行動、例えば飲酒やドラッグ、セックスに溺れ、一般的に健全とはいいがたい生活をしている黒人をみて、
だから黒人はという結論に簡単に飛びつくべきではないということだ。
確かに楽な道を選んでいるのかもしれないが、そうせざるを得ないほどの苦しみを経験している人達がこの世界にはいることを少しでも理解してほしいと思う。

黒人女性を対象としたイベントではあったが、私はここで話されたことは黒人女性だけの問題だとは思わない。
他人種が背景を理解し、偏見を取り除き彼らの経験してきた苦しみを理解することは同人種同士で理解しあうことよりももっと大きな範囲で意識に影響しあうと思う。
なぜなら私たちは人種に関わらずその前に人間であり、人種を超えて意識はお互いに影響しあう、それが人間という社会的な生物の本質だからだ。人種という概念は人間が作り出した仕分けシステムに便利な考え方であり、それは生物学的な研究等には一定の役割を齎すものかもしれないが、その人種という区分けを理由に他人種を切り離すことは分断の意識を生み出す。
私が彼女たちの経験を私の意識に通すことにより、一つアンテナが増える。私の行動範囲・コミュニケーションの範囲、それは主に日本語を母語とするグループであるが、
そこにまた新たな意識が発生する。
黒人女性の行動しない範囲に私はいる。私は自らが予想もしなかったところに立つアンテナになり、意識を発する者になりたいと思う。

モアハウス大学の卒業生への奨学金免除アナウンスメントについて

ロバートスミス氏がアトランタにあるモアハウス大学で行われた卒業式でのスピーチで、卒業生の学生ローンをスミス氏が支払うことを発表した。
スミス氏が支払う金額は日本円にして約44億。
モアハウス大学の卒業生達は突然のニュースに歓喜に沸いた。
 
スミス氏はアメリカでもっとも裕福なアフリカンアメリカンの投資家の一人で、強力な影響力を持つ人物である。
このニュースは卒業生だけでなく、多くのアメリカ人にポジティブな影響を与えたとニュースは書いている。
 
このニュースが意味深いのは、スミス氏がこの発表をモアハウス大学で行ったという点である。これをシカゴ大学やカーネギーメロン大学で行っていたら全く別の意味になるだろう。
 

[背景]

 モアハウス大学はHistorical Black Collegeと呼ばれる、主にアフリカンアメリカン男性への高等教育を提供する機関として設立された。

設立された南部ジョージア州では設立当時、奴隷制が敷かれ、アフリカンアメリカンが教育を受ける機会は制限されていた。
アフリカンアメリカン男性は奴隷制によって綿花やたばこ栽培の労働力として暴力的に酷使されており、家族からは引き離され、伝統的な家族制度は奴隷制によって強制的に解体されていた。
このような状況から、黒人の社会的地位はアメリカのなかで最も厳しい環境に置かれ続け、社会的地位向上のためには黒人への高等教育の必要性を汲み、モアハウス大学が設立された。現在も基本的には黒人男性を中心とした学生を受け入れている。(トランスジェンダーの学生も受け入れることをアナウンスしている)
 

[アフリカンアメリカンと男性の不在]

 統計的な事実として、現代においても多くのアフリカンアメリカンがシングルマザーの下で育つ。男性に限定して言うと、シングルマザーの下で育ったアフリカンアメリカン男性は父親、もしくは理想的な男性像を知らず、安定した家庭環境を経験せずに育つ傾向がある。女性についても黒人であるという社会的立場にシングルマザーという状況から経済的に困窮する環境に置かれることが多く、その環境から抜け出すことは容易ではない。このような環境から、アフリカンアメリカン男性は男性として成功とはどういうものかを知らずに育ち、犯罪や薬物に容易にアクセスできる環境からトラブル、例えば事件や犯罪に巻き込まれ、若くして刑務所に行く人もいる。また家族の形が歴史的に欠如しれいるため、若くして婚外子を作り自分の子に父親像を伝えることなく自分の親がしたことを繰り返してしまうことが散見される。

このアフリカンアメリカン男性の社会における不在性は女性へ影響する。長年にわたる男性の社会の中での不在から、男性どうせ去っていくものという諦めや不信を生み出す。不信は女性に社会をまた男性への怒りや恨みを生み出し、またその怒りから派生する自己防衛本能は男性を警戒し、愛情のある関係を築くことを難しくしている。

 

[なぜ男性が不在となるのだろうか?]

 歴史的な背景として、アフリカンアメリカン男性は奴隷制下で労働力としての資本であったことに加えて、奴隷の再生産の重要な役割を担っていた(担わされていた)。

男性は家畜が頭数を増やすために交尾をさせられるように、同じ奴隷の女性と強制的に愛や信頼を無視して性交させられ(”した”のではない)、そのあとは本人の意思に関係なくその女性と二度と会うことなくマスターの下で苦役に従事するか、もしくは高値が付く場合は新しいマスターの下へ売られていった。奴隷制の中で男性が女性の下へと戻ってくることは非現実的であった。本来あるべき男女の信頼や愛情はそこにはなく、暴力的な性交に基づいての労働力の再生産が行われていた。
 
男性を引き離す理由はは労働の必要性だけではなかった。
マスターたちは奴隷同士が信頼や愛をはぐくむことの危険性をよくわかっていた。彼らが愛や信頼を築くと暴力的な扱いを行ってきたマスターへ歯向かう危険性が高まる。
奴隷制という肉体的な暴力の下、精神的にも猜疑心や悲しみ、絶望を植え付けて立ち上がれなくなるくらい徹底的に精神を破壊しようとた。
 
このような歴史は制度上は終焉しているが、アフリカンアメリカン男性の不在性は他人種の家族の形と比べて非常に根強く、現在に至ってもまだこの背景が引き起こす社会的な影響は大きく、差別と貧困の連鎖は断ち切れていない。
 

[希望]

 アフリカンアメリカン全体の地位向上に鍵を握る男性の教育は重要な課題である。

モアハウス大学へ通うアフリカンアメリカン男性のすべてがシングルマザーの下で育ってはいないと思うが、そのような傾向がある環境で育った人は他人種に比べて多いだろう。理想的な男性のロールモデルを知らないままなんとか手探りで大人になろうとし、社会へ出ていこうとしている若い男性もいるはずだ。
彼らが教育を受け、社会へ出て経済的に成功することはもちろん大切なことだ。しかし彼らが成功することは個人レベルの経済的・社会的な成功に留まらず、アフリカンアメリカン全体の成功へとつながる。
自分の人生を自ら描き、自ら努力し、自ら歩もうとする男性の姿はそういった姿を見ることができずに生きてきた周囲の人々にも影響するだろうし、本人にも大いなる誇りと自信を持たらし、それは伝播していくはずだ。
 
モアハウス大学の卒業生の中には、自ら学生ローンの返済をしなければいけない者、シングルマザーである母親が仕事を掛け持ちして学費をねん出してくれたり、母親がローンをいくつも組んで学費を工面したりしている学生はきっといるだろう。
今後社会に出て、社会生活を送っていくなかで彼らはきっと自らの肌の色を理由に新たなる逆風にであうこともあるかもれない、というよりも合うことがきっとある。
社会へ羽ばたいていくというこのような重要な人生のステージに於いて、モアハウスというHistorical Black Collegeにおいてアフリカンアメリカンの投資家による未来への投資が行われたことはスミス氏によって支払われる学費よりももっと大きな意味がある。
 
この投資はすぐに目に見える利益を約束するものではないかもしれないが、人を肌の色に基づいて不平等な扱いをしたり、真実を知らずに偏見に基づいて個人を判断したりすることを乗り越え、調和し喜びにあふれる社会を未来へ実現させるという視点に立った時、非常に意味深い投資だと思う。
金銭的に学生ローンが免除されたことは大きな卒業プレゼントであることは事実だ。
しかしスミス氏の姿から成功とはなにか、そして成功を還元することの意味、未来への希望、アフリカンアメリカン男性に対する未来への期待をくみ取ることができる。
 
社会はこれから大きく変換していく。
そので中アフリカンアメリカン男性が今後果たしていく役割はとても大きい。
私はスミス氏の行動にその光を見る。
社会は彼らに逆風を吹かせ、困難な場面に出くわすことも多いかもしれないが、
大きな役割が彼らに与えられていることを忘れず、どんな試練が訪れようとも誇り高くいてほしい。
彼らは深い痛みを知っている。と同時に、だからこそ、深い愛を知っている。
それは何よりの強さであり、力だ。
彼らの成功と喜びは同じ人種だけでなく多くの人に歓喜をきっともたらすだろう。