黒人差別が残したもの 経済格差など序の口

アメリカで暮らして黒人のパートナーとして暮らすと全く違うアメリカが見えてくる。そして差別はあると断言する。自分のパートナーの体を肌の色を理由に破壊してもよいと考える人間がいて、そしてそういう人間が実際に危害を加えても国家や法は危害を加えた人間を擁護し、黒人の生命を見捨て、軽んじてもよいというようなことがまかり通ることは今日に始まったことではない。

黒人であるというだけで警察に呼び止められ、理由なく身体を調査されることだってある。黒人であるというだけで警察を呼ばれることもある。その黒人がどれだけ品行方正で、高い教育を受け、人格者であっても無関係に。白人が犯した軽犯罪は見過ごされるのに黒人が同じことをした場合刑務所にぶちこまれる。これは大げさや過剰反応ではなく、純粋な事実だ。

私が驚くのはあまりにもこの事実が理解されないということだ。普段黒人とかかわりの少ない人たちにこの話をすると、

ここは南部じゃないんだよ? 21世紀にもなって差別なんてないよ?黒人が意識しすぎだよ。逆差別だよ。過激な発想だよ。

これが大抵の人の反応だ。一切の平等なんてないんだから黒人は黙って諦めろという人もいる。人間としての公平な扱いを求める黒人に対して、トラブルメーカーでうるさい存在だと考えるひとたちもいる。でも一方的に経済的・身体的・社会的にもうなにをしても立ち向かえないほどにボロボロにされていて、それでも叩きのめされ続ける人種のグループが声を上げることはうるさい人たちとレッテルを貼られるべきことなのだろうか? この世は不平等でみんな何かしら我慢しているのだから黒人も黙って我慢しろ、と言えるのだろうか? 

 

それもある程度は仕方ないのかもしれない。異人種の交流がなければ、実際に起きていることを知るのは難しい。隣の家のいつも明るく素敵な妻ががひとたび家の中に入れば夫の暴力に虐げられているのを知らないように、隣人を隔てる壁がある限りその中にいる人に起きていることを知りえないのと同じように、よほど興味がなければ、よほど首をつっこまなければ実体験として見えてくる真実を知ることは難しい。しかし、知らないからといって、当事者でない人間、本当に彼らの痛みを知る努力をしていない人間が差別などないと結論着けるのは短絡的ではないだろうか。借りてきた人種差別の考えを使って私は差別などしないというのは本心なのか?それとも本心に見せた借り物の言葉による自分は善人であると見せかける自己防衛なのか? 

何年もかけて黒人と生活してみれば、簡単に自分に差別意識がないなどと言い切ることは難しいことがわかる。黒人のパートナーになっても尚自分の中の差別意識により一層気づかされる。無知であることと、実際に差別意識がないのとは全く別物である。もし黒人のパートナーで一切自分の心の中にこのような人を裁き、差別するような醜い感情が全くない、なかったと言い切れる人がいたとしたらそれはきっとよほど頭がおめでたいのだと思う。

 

アメリカに住む多くのアフリカンアメリカンは奴隷として劣悪な環境の中アメリカ大陸に連行され、重労働に従事させられ、その扱いは残酷であった。白人のマスターに鞭で打たれ、炎天下の中綿花畑で働かされ、レイプされ、白人のエンターテイメントのために踊り、歌い、戦わされ、子供を略奪され、言語・信仰・文化を奪われ、家族は引き離された。家畜のように火で熱した鉄を肌に焼き付けられ、奴隷としての刻印を地獄の火であぶられるような痛みに苦しみ叫びながら押された。

この奴隷制という暴力から派生した恐怖は差別を生み出しただけでなく、世代間に渡る他人種と比較して経済的不利益や社会格差を生み出した。物理的な面で不平等を固定させただけでなく、何より罪深いのは、人間の純粋な欲望、良く生き、幸せを求める、という人間が作られた理由であるともいえるほどの基本的な思いを遂げられずに奪われていった命が昇華されずにこの世にまた戻ってくることである。人間の使命はこの世を少しでも良くすることである。それは他者を排除することではなく、調和に基づき、他者を理解・尊重して、命を大切にすることである。その点で奴隷制がこの地球にもたらした罪は私たちの目に見えない重く苦しいものとして残っている。

奴隷制が生んだ恐怖と抑圧は奴隷解放後も黒人社会、アメリカ社会の根底に流れており、その恐怖と抑圧は本来の魂から望んでいる姿からの乖離を生み出し、彼らを逃避的な行動へ向かわせている一因となっている。

それは黒人の問題であって、他人種の問題ではない、とあなたは言うかもしれない。しかし、分断の時代は終わったのだ。もう無知ではいられないのだ。人間の意識はお互いにイルカがコミュニケーションをとるように言葉を介さなくても伝わっていく。一人が私は関係ないと差別を許容することはそのほかの多くの人に伝播し、差別を許容する意識が広がっていく。自分に関係ないなら別にそれでよいではないか、とあなたは言うかもしれない。良くないのだ。人間が生まれてきた目的はなにか。金を稼ぎ結婚し、子供を産み、年金をもらい、立派な葬式をしてもらうために生まれてきたのか。

人間は幸福を追求し、自分と他者とが調和・統合する努力をするために生まれてきたのだ。それがこの世に生を受けた理由であり、これこそが各々が持ち越してきた問題解消へとつながる。だからこそ、他者の痛みを分かちあい、幸せを共有する意識をもつことが大切なのである。神の前で、すべての人間の魂は平等であり、それが実現するように努めることが人間の使命なのである。金の前では不平等だが、神の愛は人種・性別すべてを超越している。だからこそ、差別の意識を持つことも、無関心でいることも許されないのである。その態度はまた新たな苦しみをこの世に残していくことになる。今、無関心でいるあなたも、輪廻転生の中で解消できないカルマとしてまたその苦しみを経験する可能性があるのだ。だからこそ、自分の世界だけに留まらず、他者を受容し、バランスのとれた世界への実現へと私たちの意識を向かわせなければいけない。