アウトドアと人種

自然は素晴らしい。いうまでもないが、大自然の中にいるとまずは自然、ひいては地球が存在し、その大地があって初めて人間が存在するのだと気づかされる。

人間ドラマの多い日常生活を送っていると、無知な人間は、人間こそがこの地球を導いている重要な存在であるかのように思い違いをしてしまいそうになるが、自然は私たち人間がいなくたって十分すぎるくらいにその生命を享受する。むしろ人間などいないほうが自然は彼らの命の可能性を最大限に活かすことができる。なのに自然は私たち人間を批判することも拒否することもなくただそこにいることを許してくれている。なんの取引や損得勘定もなく、すべてを無条件に許してくれている。

 

アウトドアに片足を突っ込んでしばらくたつが、どこの国立公園や州立公園に行っても気づくことがある。それは、有色人種のハイカーが非常に少ないということだ。確かに中国系、インド系の有色人種はどこの観光地でも同じように散見される。この有色人種というのは黒人、アフリカンアメリカンのハイカーのことを指す。見渡せば東洋系かインド系、それ以外はブリーチしたかのように白人のハイカーしかいないといっても過言ではない。

私とパートナーはハイキングやスキーに行く。山の中でアジア系と黒人の組み合わせはほとんど唯一の組み合わせといってもよいくらい珍しい。ハイカーの中には私たちを場違いな場所に迷い込んだ二人組であるかのように無遠慮に見てくる人たちもいる。あたかもそこは白人の支配地、所有地であると言わんばかりに。

(ネイティブンアメリカンの土地であったことを私たちは忘れてはいけない!)

私たちは恐れという感覚が欠落しているため、どんな場所にでも行きたければ行くのだが、南部に住んでいたころ、一度黒人の友人をハイキングに誘ったが、断られた。「怖いから行きたくない」と。無知だった私は彼女はきっと熊などの野生動物が怖いのだろうと思っていた。それは人種に関わらず怖いことであって、彼女が黒人であるという視点は考えてもみなかったが、彼ら特有の歴史背景からくる恐れなのではないかと今になって思う。

南部では(南部だけでなく全米で)いまだに黒人へのリンチや殺害事件が後を絶たない。黒人が人気のない山の中を歩いているということは死の危険と直結する。黒人を娯楽のように殺害しても平気な人々がいて、そんな人たちがいるところへ無防備に行くということは自らリンチやレイプを望んでいるようなものなのである。そんな状況では自然を楽しむという感覚が育まれるのは歴史的に難しかったのだろう。ハイキングやトレイルに黒人が少ないのにはこういった理由も大きく寄与していると思う。

また、ある黒人男性の友人はどれだけの数の黒人男性が山の中に入って行って帰って来なかったか知っているか?という。かえって来ないというのは決して彼らが道に迷って帰ってこられないという意味ではない。黒人を見ると暴力や憎しみが条件反射的に湧き上がる人たちがいてそういう人が実際に山の中にいた黒人に手をかけてきたということである。

国立公園や州立公園は人里離れた所にあることが多く、そこは多くの場合白人を中心とする閉鎖的なコミュニティがあることが多い。そこは銃を販売する店と、Confederate Flag(南部連合国旗)、そして”Make America Great Again”というスローガンを力いっぱいプリントした横断幕が垂れさがっている。これがどういう意味か日本にいるとよくわからないかもしれないが、アメリカではこの3セットは人種主義と排外主義のシンボルである。

そんな環境に自ら喜んで無防備に足を踏み入れる黒人が少なかったことは容易に想像がつく。黒人が奴隷制を引きずって逆差別しているととらえる人もいるかもしれないが、彼らは彼らの目撃した歴史から学び、それを子や孫に受け継いできた。学んだことを忘れるほうが愚かである。かれらは命を守るためにどう行動すべきかを学び、その結果の一つがトレイルなどの自然に無防備に入りこまないということであったのであろう。

制度上は奴隷制は廃止されているが、いまだに黒人がリンチされる事件や無実の罪で警官に殺害される事件は後を絶たない。黒人が黒人であるというだけの理由で命を奪われる可能性がある環境では今まで本来人間が自分の本来の姿に戻れるはずの場所である自然を純粋に楽しむことはできなかったのだろう。

こういったネガティブな歴史があっても、数年前と比べてトレイルで出会う黒人の数は増えてきている。近年アメリカではEquity in outdoor、Diversity in outdoorという動きが活発である。これはもっとアフリカンアメリカンにハイキングやトレイルへ出かける機会を増やし、自然に親しむ機会を作る重要性をInfluencerやブロガーが集まって働きかけているムーブメントである。

自然はどの人種を歓迎し、どの人種を拒否するなどという愚かしい考えをもたない。自然は命あるものすべてを無条件に包み込んでくれる尊く崇高な存在である。自然と切り離されてきた黒人がこのポジティブな流れに乗って本来彼らの生活の大切な一部であった自然をもっと身近に感じ、身の危険を感じることなく楽しめることが当たり前の社会になる日がくることを祈っているし、そう私も行動していきたいと思う。自然が与えてくれる力は図り知れない。どんな苦しみも呪いも溶かしてくれる。このような自然の偉大さを人種や所得に関係なくすべての人が享受できる日が来ることはそう遠くはないはずだ。