自己責任?トラウマと逃避:Women Telling Our Stories on Purpose ①

Chapter 1というアフリカンアメリカンの女性をターゲットにしたイベントに参加した。
なぜ行ったかの理由の正当性を述べる必要はないが、あえて言うならば、私の人間としての根幹に純粋に、アフリカンアメリカンの生きる世界に「本当に」何が起きているのかを知りたいという知的好奇心があり、
アフリカンアメリカンの女性が経験する黒人としての抑圧と女性としての抑圧がもたらす社会的・心理的なインパクトをこの目とこの耳と心を通してで知る必要があるという衝動的な思いが消えないからだ。
人為的に作られた奴隷制という抑圧のシステムとそれがもたらした結果は、人種に関わらずこの世界で生き、幸福を追求する私たちに多大なる学びをもたらしてくれると信じる。
 

このイベントはDr. Raedell Cannieを中心に他5名の黒人女性とのパネルディスカッション形式で進められた。様々なバックグラウンドを持つ女性たちがゲストスピーカーとして招かれたが、どの女性も強く、聡明だった。
しかし強く、聡明な女性になるために潜り抜けてきた道は険しいと言わざるを得ない。
今回はその中の一人について述べる。
 

ゲストスピーカーA:


シアトルで生まれ育ち、8人の兄弟の家族。
アフリカンアメリカンへの理由のない暴力を幼い頃から目撃している。
実際彼女の兄弟3名は白人警官・アジア系警官によりいわれのない罪で射殺されている。
彼女の父親や兄弟はただ道を歩いていただけでリンチを受けて帰ってくることが頻繁にあった。
繰り返される愛する家族の喪失の悲痛な悲しみは彼女の健全な精神を破壊した。
あまりの苦しさに、少しでも楽になりたいと彼女自身もアルコールと薬物に依存するようになった。
繰り返される愛する人たちへの残酷な暴力に、人を信じ、親切にし、愛したいという彼女の純粋な思いに反して、一切差別と恐怖と暴力をもたらす特定の民族背景を持つグループとの関わりを絶つこと、
そして誰も愛さないことを誓った。


アフリカンアメリカンのドラッグやアルコールの問題に出会ったとき、それは彼らの逃げと愚かさによるものだと言う人に結構な頻度で出会う。
そして成功できないのは彼らの努力不足と弱さによるものだと批判する。
しかし、愛する家族を暴力的に失ったら、あなたはまともな精神を保てるだろうか?
あなたは喪失の絶望感を本当に経験したことはあるだろうか?
あなたは暴力の恐怖を本当に経験したことはあるだろうか?
絶望感を経験し、さあ前を向いて生きていこうじゃないか、過ぎ去ったことなのだから、とあっさり言い切れるだろうか?


想像してみてほしい。
あなたとあなたの大切な家族が天気がいいなあときれいな空を見ながら毎日歩く道をいつも通り歩いている。
そこに自分の肌とは異なる肌の色をした警官が立っている。
警官はあなたの家族を怪しんでいるようだ。
警官が近づき、あなたの家族に職務質問をする。
あなたの家族は何も隠すこともなく、正直に質問に答える。
しかし警官は執拗にあなたの家族の体中をまさぐり、警官の怪しさを証明する何かが出てこないかとあなたの家族を尋問する。言葉で挑発する。
あなたの家族は抵抗した。
何も隠していない、他人に無遠慮に身体を拘束されたり執拗に触られる理由はない、そして他人に侮辱的な言葉を浴びせられる理由はないという純粋な人としての素直な反応に基づいて。
すると警官は拳銃を引き抜き、あなたの大切な家族を銃殺した。
そしてあなたはそこに立っていた。

 

この場面をたった一度経験するだけでも心が破壊されるような苦しみではないだろうか?
この場面を何度も経験したら?
銃殺されなくとも、何度もそれに近い状況になるところを目撃したら?


トラウマ経験は簡単に消えない。程度の差はあれ、心から消えないしこりのような固い暗い塊が消えないという感覚がある人は多いのではないだろうか。
心理学上トラウマは人間を不安や恐怖で支配するきっかけになる。
またトラウマの解消には深い愛に基づいた成功や肯定的な経験が必要である。
このようなトラウマの性質を考えると、社会的に繰り返し行われる暴力により、世代を渡ってアフリカンアメリカンの中でトラウマの解消ができていないのではと私は思える。


個人レベルのトラウマに加え、集団レベルでのトラウマが加わっている。

人はアルコールや薬物への依存はその本人の心の弱さであり、逃避的行動であると批判する。
しかし、あなたは彼女が受けた悲しみと喪失感を本当に彼女の立場になって想像しているだろうか?
家族が殺されているのだ。家族が失われているのだ。あなたの家族に置き換えて考えてほしい。

黒人は歴史的に何度も何世代にも渡って家族の中にこの暴力と喪失の悲しみを経験しているのだ。
彼女のように家族の中だけでこれだけの数の人が差別による暴行を受け、実際に殺されているということは、
対象を拡大すればかなりの数のアフリカンアメリカンが罪なき罪で身体を貶められ、破壊されてきたということである。
それはすなわちこの絶望的な経験をした人が多く、その苦しみの結果ドラッグやアルコールへ逃避しようとする人が増えるということである。
逃避行動を肯定しているのではないが、その必要があった人の数は暴力の数だけ増えるといってもよいと思う。
だから暴力はすぐにでも止められなければいけないのだ。
 

一方的に不平等な扱いを強いる民族グループを憎む黒人を批判する人もいる。
奴隷制など過去のことだ。忘れて前に進めという。
黒人は過去にとらわれて進化しないという。
制度上の奴隷制は廃止されたが、黒人であるというだけで肉体を破壊される事件は現在進行形で発生している。
あなたの家族が特定の人種に繰り返し暴力を振るわれ、あなたの家族が特定の人種に繰り返し命を奪われ、それでもあなたはしょうがない、あきらめて許そう、と簡単に言えるだろうか?
何度も言う。一度ではないのだ。一度でも起きてはならないことが何度も家族に起きるのだ。

それでもあなたは黒人が暴力をふるう者に抵抗することを黒人の愚かさであるといえるだろうか?
暴力をふるう人間の肌の色が何色であれ、暴力をふるう人に抵抗するのは人間の自然な本能ではないだろうか。


今私が言いたいことは、アフリカンアメリカンのドラッグやアルコールへの依存や現実逃避は当然のものだ、こんな歴史背景があるから仕方ないのだ、ということではないし、
暴力をふるう人種グループを憎むことが正当な反応だと言いたいのではない。
最も言いたいことは、表層に現れてきた行動、例えば飲酒やドラッグ、セックスに溺れ、一般的に健全とはいいがたい生活をしている黒人をみて、
だから黒人はという結論に簡単に飛びつくべきではないということだ。
確かに楽な道を選んでいるのかもしれないが、そうせざるを得ないほどの苦しみを経験している人達がこの世界にはいることを少しでも理解してほしいと思う。

黒人女性を対象としたイベントではあったが、私はここで話されたことは黒人女性だけの問題だとは思わない。
他人種が背景を理解し、偏見を取り除き彼らの経験してきた苦しみを理解することは同人種同士で理解しあうことよりももっと大きな範囲で意識に影響しあうと思う。
なぜなら私たちは人種に関わらずその前に人間であり、人種を超えて意識はお互いに影響しあう、それが人間という社会的な生物の本質だからだ。人種という概念は人間が作り出した仕分けシステムに便利な考え方であり、それは生物学的な研究等には一定の役割を齎すものかもしれないが、その人種という区分けを理由に他人種を切り離すことは分断の意識を生み出す。
私が彼女たちの経験を私の意識に通すことにより、一つアンテナが増える。私の行動範囲・コミュニケーションの範囲、それは主に日本語を母語とするグループであるが、
そこにまた新たな意識が発生する。
黒人女性の行動しない範囲に私はいる。私は自らが予想もしなかったところに立つアンテナになり、意識を発する者になりたいと思う。